自由って、やりたい放題とかわがままとかそういうことじゃない。
自由じゃないとしあわせじゃない。
よし、自由人になろう。
『自由』という意味
自由であるということは、自らを由(よし)とするということ。
『由』というのは、理由、わけ、手段、口実、いわれ、原因、頼り・・・そんな意味です。
自らを理由とする。自らをよりどころとする。自らを手段とする。
自分のまん中に添うということ。
外じゃなくて中。
誰かや何かや状況じゃなくて自分。
自分のまん中は心。
自分の心に添って自分を軸とすることが自由ということ。
自らが決め手(決める人)。
他の誰かや何かを軸にして自由でいることはできません。
自由な人は自分軸
例えば、人にどう思われるかを気にして言動するとき、私たちは自分の心を置き去りにしています。
意識は外側へ向いています。
接する人が親切にしてくれたら、自分も親切に対応する。
相手が不親切な態度なら、こちらも無愛想にする。
そういうのも外側に軸がある状態。
外側に軸を置くということは、自分の満足は周り次第ということ。
周りが自分の思い通りにならない限り、自分が幸せでいられない。
人や状況次第で自分のふるまいを変えて外側の出来事にいつもリアクションしている状態。
とっても不自由で不安定。プラス疲れる。
いつもどこかで何かしら望まないことが起こるから、気分は上がったり下がったり。
もしくは下がったり下がったり・・
外側に軸を置いている場合、満たされることはないのです。
わがままは自由の反対
自分を中心としてふるまうのは、身勝手とかわがままになるんじゃないの、と疑問を持たれる人も多いです。
自分軸と身勝手は違います。
身勝手は他人軸です。
身勝手というのは、「自分」対「他人」、「自分」対「その他」という構図。
勝つか負けるか、損か得か、優か劣か、どちらが上でどちらが下か・・・
どちらかが意見を通せば、もう一方は我慢して合わせる・・・
そして、人の顔色を見てふるまうことは一見周りを気遣っているように見えるけど、相手のためを思って行動しているのではありません。自分がどう思われるかを考えてのふるまいです。
それって、じゃあ自分軸?
いいえ、やっぱり他人軸。
他人から自分がどう見えるか、他人の視点を気にしているけど、その相手が本当はどう考えているかは確かめていない。
相手はこう思うんじゃないか、こう思うに違いないという自分よがりな他人視点。
他人軸というのは自分のことも人のこともありのままには見ていません。
自分のまん中に添うということは、本当に添うということは、勝つか負けるか、優か劣か・・そういう争いとか犠牲とかっていう構図の中にはない状態。
win-win
ほんとうに自分に忠実にふるまうとき、周りの人の幸せと対立はしません。
自分の自由を許せる分だけ、人の自由も受け入れることができます。
自分も他の人もハッピーでいいのです。
「ワタシここが好きなの。だからゴミ箱の中にいるのよ。なにか?」
と自由な猫が言っております。
自由じゃないとハッピーじゃない
外側のことにリアクションしちゃいけないと心配しないでください。
自分の心を置き去りにして、つい外側のことにリアクションしても大丈夫。
そうなったら、内観する。
どんな気持ちがしたか。
どうしてそうリアクションしたか。
外側に起きていることに対して自分の心がどうなっているのかに意識を向けて、どんどん掘り下げていく。
そして、ほんとうの思いに気づいたら、それに沿って行動する。
たとえば「相手が笑ったから笑いたくないけど自分も笑った。どう思われるかこわいから」
こわいからそうする。
もし、怖いからそうすることを心が望むならそれは自分の「選択」。
自分の選択と自覚してそうふるまうならそこには自由があります。
自動的に周りにリアクションしたり、見えない怖れに操られているとき私たちは不自由さを感じます。
でも、怖れによる行動を自分で選択するなら自由な気持ちが生まれます。
もしも、怖れに従って行動したくない。心が喜ぶことをしたいというのがほんとうの望みなら、それを「選択」する。
自分の心の声に耳をふさいでいるとき、私たちは何をよりどころとしていいか分からないから外側にリアクションします。
自分がどうしたいか分からないから、人の反応を頼りにリアクションするのです。
外側に軸があるとき、私たちは周りをコントロールしようとしたり、逆に順応しようとしたりします。
その結果、思うようにならず苦しくなるのです。
自分のまん中を軸として自分で選択ができることが自由。
私たちは望むことを選択できます。
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